自分としては?の落とし穴
昨年の「武禅一の行」の感想に
「向かっていない・遠くにいる・形だけ・全体がちぐはぐ・ふんわりしている、全て、自分が取り組み行動している事とは、異なった形として出ている。やはりか。何回やっても同じ反応だった。日常の中で、組織の一員として人と関わっていた時も、これと同じ事だと思う。伝えても伝えても伝えられない、悔しかった。」
があった。
これを書いた人は、決して日常破綻者でもなければ、社会不適合者でもない。
ちゃんとした仕事を持ち、責任をもって仕事に取り組んでいる人だ。
しかし、本気で向き合う相手から見れば、こういう具合に見えているのだ。
そして、この感想の中にも「ちぐはぐ」を表す言葉があるので、この感想を書いた事で、この人はヒントを得ている。
「ちぐはぐ」が見えるのは、最後にある「伝えても伝えても、伝えられない」という言葉だ。
自分としては「伝えている」のだが、それが伝わらない。
それは何故か?
「自分として」だけ、つまり、相手に相応しい言葉、相手が理解するであろう言葉、という具合に、照準が相手を向かずに自分だけに向いているのだ。
これは、この人に限った事ではない。
大なり小なり大方の人はこれだ。
そこを真正面から突っ込み合いをするのが「武禅一の行」だ。
本来、こういった事の芽は幼児から子供時代、そして思春期の頃には育っていなければならない。
ところが、こういったやりとりは「いじめ」だと決めつけている社会や人達が、「他人から見た自分の姿」を見れなくしてしまっているのだ。