場違いというのは
「場違い」という言葉がある。
それは、その場に相応しくない、場から見れば違和感があるという事だ。
それは「空気を読めない」とも共通する。
最近、巷のセラピストが「空気を読めなくても良い」だの「そのままでよい」だのとのたまっている。
「ほんとか?」
あるいは、そんな事を全く知らないのではないかと思われる若い人もいるし、年を取った人でもいる。
しかし、逆に驚くほどそういった事がしっかり身に付いている若い人もいる。
ほんとに世間は二分化されているのだろう。
「場違い」というのは、自分がどこで何をしているのかを自覚出来ない、あるいは知らない人の事だ。
そうなってくると「口の利き方」も「態度」もとなる。
「場違い」は、生き抜く為の本能的な能力の欠如だ。
しかし、「生き抜く」なる言葉は、日本では想像力の貧困から死語に近い。
あるいは、親の先回りから身に付いていない場合もある。
もちろん、ある一部の貧困の方達を除いて、大方は間違いなく自動的に生きているからだ。
「場違い」が起こるのは、自分を支持してくれる人達とだけ、つるんでいる時間を多く持って来た人達だ。
つまり、自分勝手が通用する世界でしか生きていない人だ。
昔の言葉に「可愛い子には旅をさせよ」がある。
その体験が無い場合は、能力が開花しないのだ。
そういえば、私よりも10歳ほど下の女性で、「え~」という女性がいた。
日本語がまるで通じないのだ。
暖簾に腕押しだった。
案の定周りとは、トラブルだらけで、しかも常に相手が悪いとなる。
ま、そんなおばはんはどうでも良い。
場に馴染むのが良い、空気を読めるのが良いのではない。
その能力を開花させる事が大事なのだ。
それは、自分の進む道の中で、どんな事が起こっても、そこで足踏みすることなく前に進む推進力だからだ。
今、ふと「場違い」ということで気付いたのが、それが起こるのは「構えているから」でもあることだ。
自分自身が構えているので、周りが見えないのだろうという事だ。
何の為に構えているのか、それすら自問自答したことがないのだろうが。
宮本武蔵は「構え合って構え無し」と残している。
そして「斬りよい為の構え」、つまり、自分自身が行動を起こしやすい、自分自身が何かしらを突破するのに便利な姿勢、それが構えだという教えだ。
しかし、現代の構えはこれではない。
自分を護る為に、というものだ。
本当に生命を賭けた時代には、相手に対して行動を起こす為にの構え。
現代のように生命など考える必要も無い時代は、自分を護る為。
自分の何を護るというのか。
それだけ幻の中で生きるのか楽しいのだろうか。