あきらかな違いが、人の能力を開花させる
「違いがある」これを最初に気付くのは子供の頃、小学生低学年だったろうと思う。
それは、近所の子供達と遊ぶことで知った事だ。
もちろん、深い事ではない。
この頃の近所の子供達との遊びは、中学生から小学1年生くらいまでが入り混じっての遊びだ。
大きな人達、中学生のいわばお兄さん格の人達が遊びを誘導した。
ラムネ(ビー玉)を使っての遊びや、ベッタン(めんこ)遊び、コマ回し他、色々な遊びを生み出していた。
その遊びに混じる。
そんな時、お兄さん格の人達が、ルールややり方を教えてくれた。
もちろん、熱中している時は、小さな子供達は、見よう見真似でその中に入った。
そんな状態が、遊びの主流だった。
だから、お兄さんたちと自分たち子供は違うという事を体感したものだ。
その「違いがある」と体感したことが、後々「人は違う」という深いところを考える契機になっている。
子供の頃のお兄さんたちは、まるで何でも知っていて、何でも出来るスーパーマンのように写っていた。
だから、早くその年齢になりたかったものだ。
そして、次は大人に混じっての祭りがあった。
子供たちは、ダンジリを引っ張るだけだが、選ばれた子供は、大人達とダンジリに乗り太鼓を叩けるのだ。
しかも、学校を休んで神社に奉納も出来る。
だから、小学4年生の時、大人達から「日野君、太鼓を叩いてごらん」と言われた時は、恥ずかしさの中に「やった~!」と喜んだものだ。
何を言いたいのかと言うと、学校生活だけで社会に出た時、こういった「あきらかな違い」という体感を、果たして持てるのかどうかだ。
「あきらかな違い」は、尊敬や憧れ、敬う等という、社会における人に対する、ある種の感情を育て、付き合い方を覚えていくものだからだ。
その意味で、同年代の人達だけで、保育園時代から大学卒業迄の17.8年間、あるいは高卒としても13.4年間も過ごすのは異常ではないかと思うのだ。
異常というのは、「あきらかな違い」が少ない事だ。
その事で、同じような思考や価値観を定着させてしまう可能性が大ではないかと考えてしまうのだ。
通常はそこにある年齢差は、小学生で6年、中学や高校で3年、そこに教師が入るくらいだ。
「あきらかな違い」は、もちろん体感であって、つまり、幻想であって実際にどう違うのか、年齢差がどれ程の能力差他のを生むのかというものではない。
いうなれば、その「違い幻想」が、自分自身の人に対する想像力や、価値を作り出せるのだ。
例えば、トップアスリートが子供の頃、その世界のトップアスリートに憧れるようなものだ。
それが、尊敬他の人に対するある種の付き合い方を形成すると同時に、様々な取り組み方や工夫をするという能力を開花させるのだ。
そこから考えると、アスリートのように自分の属する世界を持たない大多数の人は、前述の年齢幅の大きな世界を体験・体感している必要がある。
それが、人間関係のある種の根幹にあるルールを形成するからだ。
それはまた自分自身の人間形成の一端を間違いなく担うからだ。