一寸自分を考えてみる

「人は見たいものしか見えない」あるいは、「聴きたいものしか聴けない」、つまり、自分の枠から出る事はない、自分の枠から出られない。
当たり前だ。
しかし、当たり前なのだが、その当たり前を当たり前だと気付くのには、それなりの過程が必要だ。

自分の使っているPC、そのPC以上の性能、それ以下の性能になることはない、というのと同じだ。
だから、性能を上げようと思えば、買い替えるしかない。
あるいは、新たに作られるのを待つしかないのだ。
そこも過程が必要だ。

出来上がったものがあるとすると、その出来上がったものを基本として使う。
それがどんな発想から、どんな必然から、どんな欲求から出来上がって来たのかは、よほど物好きか、よほど関心を持つ人しか、そこを見ようとはしない。
私は物好きだから「どこから始まったのか」に興味を持つ。
そこに「何で、どうして?」と好奇心が湧く。

そこに最初に手を付けたのはジャズだ。
ジャズを仕事として選んでからだ。
それは、どうしても自分が演奏しているジャズに興味を持てなかったからだ。
しかし、ジャズを職業として選んでしまったのだ。
だから、興味を持てるジャズに出会うまで、毎日8時間は徹底的にジャズを聴き込んだ。結果、興味を持てるジャズと巡り合った。

同時に、そのジャズは何時から始まったのか?では、その元々は?となると、その音楽は何時?どこから?どうして音程が決まったのか?リズムが決まったのか?そんな事を考えた。
その「何時?どこから?」と、現時点のジャズへの発展過程を考える。
そんな事にも興味が湧いた。
もちろん、その答えなどある筈もない。
それは、時代や個々に発展させたものの集大成だからだ。
がしかし、その答えが無いという答えを、延々と突き進む。
どういう訳か、それが好きなのだ。

 

こういった「何時?どこから?」という事を考えていると、様々なジャンルとの影響関係も見えてくる。だから、裾野が広がり続けるし、その裾野にも興味が湧く。では、ダンスは?演劇は?という具合だ。

と書いている言葉が、私自身の性能を広げているのか、進化させているのかは分からないが、確かに10年前、20年前、50年前とは違っているのが分かる。
過程を経ているからのものだ。

そういう体感が、「人は何時から人になったのか?」とか「人への発達の過程」に興味を向けてくれる。
人類の誕生からの壮大な歴史の中に、人一代の発達過程が内包されているのだろう。
そんな事にも興味が湧く。

私の興味は、もちろん、そのジャンルの専門家になるということではない。
あくまでも一個人の興味の範疇だし、私が納得したら嬉しいだけのものだ。
だから、常に思うのは「一体、私は何を見ているのだろう」「何を聴いているのだろう」だ。
私の枠を探索しながら、その枠のセンサーは、何を掴んでいるのか、掴もうとしているのかを探索しているのだ。
その意味でも、「一体私は何なのか?」だ。

きっと、私は「私」を一つの材料として、「人」を探っているのだろうと思う。
私は、私を好きなのではなく、きっと「人」が好きなのだ。
そんな事を思う様になるまで、どれだけの過程を費やしているだろうか。
その過程が、間違いなく現在の自分、私自身だということだ。

Follow me!