何でもありの原点は
先日、空手部の試合の為に上京していた先生と久しぶりに稽古をした。
終了後、ミニ飲み会で、私の常識を覆す考え方の話になった。
その事で、ふと思い出した話がある。
私の天邪鬼な性格を後押ししてくれた話だ。
10歳くらいの小学生の頃、詳しい事は忘れたが「かくれんぼをしている時に、突然食事をしに家に帰る」その転換が大事だという話だった。
当時、深い意味は分からなかったが、まさしくその話が腑に落ちたのだ。
「何でもあり」というのはそういうことだ。
この話が、私の天邪鬼に火をつけてくれたのだ。
私の「どうして、そうでなければいけないのか」そう考える原点はこの話だった。
これを一つのルールの中で当てはめていけば、様々な考え方が生まれてくる。
こういった考え方は、現代にこそ必要だと、今更ながら思う。
その意味でも、私が武道の道に入ったり、フリージャズを志向したのは必然だったのだと確信した。
この「どうして、そうでなければいけないのか」を徹底的に考え具体化が必要な事だからだ。
つまり、考えを練るということに興味があるのではなく、具体的にそれを実践できる事にこそ、その価値を認めていたからだし、実践できる、つまり、私自身がそう生きるということに意味があるからだ。
先日も書いた、今回のワークショップ中に「日野さんは、『感じる』ことが、生活や人生で活かせているのですか、また、どう活かせば良いのでしょうか」という質問に対して、「人生そのものがこれや」と答えたのは、小学生の頃からそうしようとし、そうして来た答えだ。