全ては過程の量と質
日曜日の稽古で、一寸思いついた事をした。
相手が掴んでいた私の腕。
その腕の筋を動かす事で相手の身体に作用させた。
見た目には何も動いていないからさっぱり分からない。
もちろん、冗談のような事だ。
見ている人は私の説明に頷き、直ぐにチャレンジする。
もちろん、そのチャレンジは悪くはない。
しかし、自分の身体認知能力のレベルがどの程度なのかを分かっているのか?
そして、それを分かった上でのチャレンジなのか、というところが気になった。
まさか自分のレベルを分からずにチャレンジしているのではないだろうと思う事にしている。
そういった身体を認知しコントロールする力は、基本稽古をたっぷりするから培われる筈だ。
「筈」というのは、それぞれ個人が、自分のレベルを知り自主的に工夫をした稽古を自分に課している、という前提を守っていると思うからだ。
先ずは肘と膝、そして肩や指先だが、道場での稽古だけしかやっていない人は、10年以上経ってもクリアしない。
そこが、形が出来たら「出来た」とは、全く違うところだ。
だから、逆に工夫を重ねられれば、短期間でクリアすることもあるということだ。
もちろん、その為に指導をしているのだが。
昨日の話ではないが、大方の人は「過程をすっ飛ばして結果だけを求めている」のには驚く。
もちろん、自分自身が取り組んだ過程の分だけしか結果は出ないのが現実なのだが、その事を認識していない人が、これまた多すぎるのだ。
その意味でも、身体を使った高度な技術に挑戦する、というのは、自分を知る事の大きな手掛かりなのだ。
なにしろ、取り組まなければ出来ない、工夫をしなければ出来ないからだ。
だから「道」なのだ。