親の先回りは犯罪だ2

団塊の世代や、その56年後に生まれの人達とは、きっと環境がガラッと変わったのではないかと思う。

1948年に生まれたが、幼稚園や小・中学に行く頃、殆どの親たちは生活をしていくことに精一杯だった。
世間は戦後復興をシャカリキに飛ばしていた。
それが戦後の高度成長へと繋がって行き、1970年の大阪万博で経済的には、一応落ち着いた感じだ。

つまり、私達子供時代の親たちは、「子育て」という言葉も持たず、一心不乱に働いていたのだ。
結果、その姿を見て子供達は、強く逞しく育っていったのだと思う。

「子育て」という言葉が巷に流れるようになったのは、きっと生活が安定し、余裕が出てきたからだろう。
「子育て」は、人類誕生以来続いている当たり前のことだ。
ただ、親が子供に対して、何かしらの期待や、親の思い通りの人生を歩いて欲しいから、必要以上の手をかけるのだ。

「子育て」という言葉自体が間違っている。
子供を育てているのではないからだ。
子供という特殊な人間はいない。
全て社会に出て働き、そして結婚をし子供を育む。
もちろん、結婚しない人もいるだろうし、同性で一緒になる人もいるだろう。
しかし、成人し社会に出ることは共通する。

そこでは、人との関係が全てに絡んでいる。
当たり前だが、無人島で一人で生活し死を迎えるなら話は別だ。
そうなら、一つの過程が子供という時期だ。
当たり前だ。

育てるというならば、そこを目指していなければならない。
もちろん、どんな親でも目指しているだろうが、そこに抜け落ちているのが、「強さ・逞しさ」だ。
こればかりは、全て実践、つまり、子供の環境との兼ね合いだ。
というところで「いじめ」という状況も出てくるのだ。

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