先生は自分しかいない

中学時代、器械体操を独学でやり、大阪市の代表になった、というと一様に驚かれる。
その意味が未だに理解できない。
人は学べるが習えないからだ。

もちろん、言葉として「習う」があり「教える」もあるが、結局は自分自身が取り組み気付き、修正しているのだ。
だから、自分自身が自分自身のやっている事に気付かない限り前には進まない。

もっと言えば、「先生」という存在を必要とするならば、それは「自分自身」以外には無い。
その意味では、お釈迦様のいう「天上天下唯我独尊」だ。

器械体操の時は、自分のやっている事を知る為に写真を多用した。
仲間に頼んで、自分の練習を撮ってもらい、それを見る事で「自分自身を確認」し修正していった。

その意味で、何らかの目的を持つ人は、言葉化することで思っている事考えている事を、自分の外に出す必要がある。
その外に出した文章や言葉を読み返し、自分自身を改めて判断することだ。
そして、問題点、稚拙な点、甘い点等を発見し、その文章を修正できるなら修正し、改めて書くなら書く。
それの繰り返しが、自分の思いや考えを深くしていくのだ。
あくまでも、自分自身の力しか自分には有効ではないからだ。

もし、身体を使うことであるなら動画を撮ればよい。
自分が訓練の目的とする箇所に焦点を当ててみる事だ。
動画の欠点は、全体を見てしまい漠然としてしまうからだ。

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