真の実感は武器になる
「痛みとは実際の刺激そのものではなく、先入観など自分で創り出している曖昧なものであるということを実感できた。」
とは、「明鏡塾」を再受講している医療従事者の感想だ。
この「実感」が物事を考える上での最高の武器だ。
実感がその人の言葉を立体化するからだ。
そして再現することが可能になるのだ。
しかし、ここには大きな落とし穴がある。
「実感」は読んで字の如しで、何らかの体感である。
しかし、その実感を体感という実際を潜り抜けさせずに、「納得」に転嫁させてしまう落とし穴だ。
体感というのは、身体に対する一瞬の出来事でも体感しているが、それではその体感が目的に沿ってのものかどうかを判別できないのだ。
だから、それを繰り返す事で、納得ではなく身体が間違いなく体感し、実感というレベルになるのだ。
大方の人は、「分かった分かった」「本当にそうなんだ」等々と、一瞬の体感に驚き喜び、それで終わる。
私から言わせれば、それは体感出来たことでも、体験した事でもない。
それは、「今日は日差しが強かった」くらいのことで、自分自身の思考の幅を広げたり深くすることにはなっていかない。
同じ体感を繰り返し、それを「どういうことか?」と頭に引き上げ、「そういうことか」となった時、それが体感であり実感という事になるのだ。
だから、その結果としての体感や実感は、自分自身の幅を広げる、あるいは、思考を深くする為の武器になり得るのだ。
この感想を送ってくれた医療従事者は、この過程を踏んでいるから、自分の仕事としての武器を手に入れたのだ。