音は響かないが声は響くのは

今回のワークショップは、何時も書いているように少人数だった。
だから密度が濃くなった。
その密度の濃さが最終日の最後のコマで、素晴らしい出来事に現れた。

最後のコマは「声を届ける」だ。
ここで全員が煮詰まる。
届かないからだ。
誰に声を出しているの、とジャッジされ、ジャッジする人もジャッジは出来るが、自分も出来ないからだ。

「音と声は全く違う」
もちろん、声の中に音という要素は入る。
しかし、音の中には声という要素は入らないのだ。
ここで一番苦労するのが役者や俳優、声楽という、いわゆる声を仕事として使っている人だ。

それは、仕事柄「発声」を訓練する。
その事で、声の通りや聞きやすさ、活舌が訓練される。
つまり、声を道具化しているのだ。
もちろん、それが間違っているのではない。
しかし、それは「音」であって「声」からはどんどん遠ざかるという結果になる。

声は感情や気分、欲求を源とする。
意識ではないのだ。
だから、相手という「人」に響くのだ。
聴こえるのではなく、響くのだ。
もちろん、「こころに来ました」という思い込みではない。
感情が揺さぶられるのだ。

常連の介護士の男性、靴職人の男性、アイドルのおばあちゃん、そして理学療法士が一つの組になって、その「届ける」に挑戦していた。
ここで出される言葉は「もっと、もっと出してよ」だ。
何が「もっと」なのか、誰も分かっていないが、その言葉しかない。
それこそが当事者の「気持ち」を表しているのだ。
だから、誰にも通用する。
「もっと来て」だ。

その繰り返しで、精も根も尽き果ててしまう。
それにもめげずに相手の人と向き合う。
その内に声が飛び出してきた。
同時に表情が出て目が大きく見えるようになった。
あちこちでやっているが、皆が一斉にこの組に注目した。
「どうして?」
声だからだ。

音ではなく、その介護士の声、肉声が目の前の人に向かっているからだ。
声には葛藤があり、感情がある。
葛藤は自分の持つ自意識や諸々の常識観とのものだ。
それらが丁度よい味加減を作り出し、注目せざるを得ない状況が生まれるのだ。
介護士が届け終わると、一斉に拍手が沸いた。
声と音の違いだ。

そして、介護士と向き合う理学療法士との「関係」という状態がそこに見えている。
それにも拍手だった。
人が人に話す、会話をするというのは、そういう状態である筈なのだ。
その組は全員が注目され拍手を貰っていた。

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