言いたい事を生きる
ドラムを叩いていた頃(50数年前)、ふと疑問に思った事がある。
それは、例えば、レコードジャケットなどに入れられているメモに、演奏者の意図や思いが綴られていることだ。
どうして疑問なのかというと、それらは「演奏で現すからこその表現者」であって、言葉として文章としてしか表せないのであれば、その方面に進むべきだからだ。
それこそカスみたいな演奏を聞かされて、それは「こんな意図を持ち、こんな思いでやりました」と言われても困る。
どうして、それを演奏で現せないのか、できないのであれば、あるいは、もしもそれらは別のものだと思っているのなら、即刻「表現者」を止めるべきだ。
だから、以前ふれた「現実は芸術を超えている」になってしまうのだ。
当時は、そういった会話が音楽や演劇や美術などで熱く語られていた。
それが高じて激しい喧嘩に発展することもしばしばあった。
つまり、それほど自分自身や日常と「表現」が密接に繋がっていたということだ。
これは、特殊な事ではない。
デザイナーの皆川明さんとの会話の中で「ダンスの説明を見せられても困りますよ、そのダンスを見せて欲しい」と、二人でうなずきあった事があった。
同じく画家の寺門孝之さんとの会話で「学生たちの作品を見て『これは何?』と質問すると、あれこれ言葉が出てくるので、それをキャンバスに現すのが絵画だよ、だからそれを描いて、というのです」と、これまた至極当たり前のことなのでうなずきあったものだ。
そんな当たり前の会話は、このお二人以外とは無いから、コロッと忘れてしまっていた。
何を言いたいのかと言えば、今回のコロナ騒ぎで、色々な人が色々なことを綴っている。
それはもちろん自由だ。
だが、中には表現者もいる。
若手芸人と呼ばれるジャンルの人も、とにかく色々だ。
しかし、それらを読んでいて、「どうして自分のジャンルで、自分のスタイルでそれを料理しないのか」と不思議に思う。
もちろん、そういった表現者というジャンルの人でなければ、例えば外国ならデモという形をとったり、例えば商品なら不買運動をしたりと表現する。
グダグダ書くより行動だろう。そんなことも、数10年前に書いた事がある。
それこそ文句を書く時代ではなく行動する時代だと。
私は「言いたいこと」を行動している。
というよりも、「言いたいことを生きている」
それが生きるということだ。