データーと実際
データーそのものを疑う。
それは鉄則だ。
特に今回のような世界的な流行になったコロナウイルスという病気では、データーを疑うことが大切だ。
もちろん、データーそのものではない。
そのデーターの使い方と、データーの根拠だ。
まず、大きく分けてヨーロッパとアメリカとアジアとに分ける。
つまり、それぞれのデーターの有効性は、その地域に限るということだ。
それは、文化や風習が違う、当然、身体そのものが違うから、それを当てはめる事は出来ないし、してはいけないということだ。
日本は、諸外国と比べて限りなく死者数が少ない。
それは対策や対処がうまくいっているからではない。
人が違うから、つまり、そのウイルスと身体との関係が違うからだ。
そこでBCG接種のことや抗体が出来ているのではないか、という説が飛び出す。
もちろん、そうかもしれない。
そうかもしれないというのは、現状では何も分からないからだ。
ただ、現在の状況だけしか分からないのだ。
人は皆違うと、誰しも認識している筈なのに、どうしてこんな時だけ、それを飛び越えてしまうのか、そこが分からない。
もっといえば、厳密にいえば病気をデーター化することなどできない。
データー化しているのは、機械を作りやすい、薬を作りやすくする為だ。
病気は個人のもの、全部違うからだからデーター化など出来ないのだ。
個人のものというのは、コロナに感染した人が2人いたとして、感染はしているが、その感染の根拠は共通しない事が多いからだ。
根拠というのは、いわば体調だ。
しかし、一つ共通することがある。
回復した人は全て免疫力が高いということだ。
それは、人それぞれに違うのではなく、人に備わる機能だからだ。
武道の探求とは、こういったことでもあるのだ。