他人を尊重できる目は

ふと、自分の何かに気付く。
それを修正したいと思う。
そうすると、余計に修正までの道のりが遠いことに気付く。
そうなると、諦める。
こんなパターンを、私は繰り返している。

例えば、丁寧な字を書きたいと思う。
その丁寧は「美しい」という目的を持っている。
子供のころお習字を習っていた。
じっとしているのが苦痛だったので、1年くらいで止めた。
それを思い出し「あの時、ちゃんとやっていたら良かった」と、意味のないことを思う。

で、改めて字を稽古する。
真っすぐ引きたいが書けない。
「真っすぐは難しい」と、何本も書いてみる。
つくづく、その難しさが分かる。
つまり、自分が「どうしたいのか」を持たなければ、そしてそれが明確でなければ、その難しさも克服する為の時間も見えてこないのだ。

単純に自分にはできないから難しい、とは誰でも思うし思えるものだ。
そのレベルで日常を過ごしていると、人の歩んだ道、それぞれの人が様々な目的を持ち、それを達成している人の過程を想像も理解も出来ないのだ。
というよりも、そんな事が頭に浮かび上がっても来ない。
なんとなく息をしている、人畜無害な人とはそんな人だ。

そんな人には、他人を理解できる筈もない。
字を美しく書きたい、という字の素人でも、その難しさの一端でも体感出来たら、それこそ字の達人が、どれほど工夫を重ねたのかを想像できないが想像することが出来る。
そこで初めてその人が見えてくるものだ。
だから、人を尊重したり、敬ったりするこころが育つのだ。

ワークショップ次は大阪4月3,4,5日・東京6月4,5,6,7日

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