中学2年生の驚くべき感性(訂正)

海岸沿いのカフェでモーニングコーヒーを飲む。
「暑~」まるで夏?好天に恵まれているからだが、やはり熊野の山から下りてくると気候が違う。

沖縄ワークショップは、子供達の活躍が目立ったと書いたが、打ち上げ時にその子供達と向き合って、完膚なきまでに壊されたおっちゃんが座っていた。
「いやぁ、完全にめげました」と頭を抱えていた。

どうしてそうなったのか?そのおっちゃんは仕事柄、遠くの人にでも声を届けていた。
だから、目の前の子供に届かない筈は無い、と思い込んでいたからだ。
「思い込んでいた」というのは、常に声は届くとという思い込みだ。
遠くの人に届いていたのは、おっちゃんが届かさなければならない「必然」と「欲求」があり、尚且つ「感情」が動いていたからだ。

よくよくその「遠くの人に」というのを尋ねると、危険な事が起こるかもしれない時に、ということだ。
そうなのだ。
例えば、「危ない!」と声をかけたとき、それが必死であればあるほど、その人に届く。
こういった状況をすっ飛ばして、ただ単に「届ける」をやろうとしていたのだ。
必然がないから、当然子供達には届かなかったのだ。
つまり、ワークショップではそういった危険の伴う必然がないから、逆に「目の前の人に」という必然を作る必要があるのだ。

そして、その子供達が打ち上げの席で、私に驚くような質問をしてきた。
「日野先生が話すと、私のこころに響くのですが、他の人の話で為になる話のように聞こえるのですが、こころには響いて来ないのは何故ですか?」というものだ。
こんなことを感じる中学2年生。
判断ではなく、解釈ではなく、ダイレクトで響いてくる、その体感と感性を大事にして欲しいものだ。

「私はあなたに話をしている、それは分かるやろ、その響いて来ない人は、『あなたに』ではなく、その『話をしているだけ』だからや。その聞きわける感じは生きて行く上で大事だから、絶対に無くしたらあかんで」と話した。

彼女達は、食い入るように私の目に食らい付いていた。
「聴いていた」のだ。
当然、響く。

という具合に子供達も成長している沖縄ワークショップだった。

受講してくれた皆さん、ありがとうございました。
次は夏です!!

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