これ、はその人のレベルで

「これはこうすれば出来る」
方法の事だ。
ここに問題が二つある。

「これは」は、方法を提示する人の「これ」であり、「こうすれば」も提示した人のこうすればだ。
つまり、提示した人の「これは」は、そこにある状態、例えば、私が動画等で基本としてやっている一つの身体操作だとすると、提示した人はその人なりの分析能力で、つまり、自分の出来る範囲でそのことを「こうすれば」としているだけで、私の「これ」ではない。

もちろん、それが悪いのでも間違っているのでもない。
それがレベル差であり、仮説でもある。
筈だ。
それは別として、その人の「こうすれば」は、その人の「これ」でしかない。

つまり、ここの例で言うと、私の「これ」は、私のこれであり、それがそのまま誰かに伝わることは無いということだ。
それが現実だ。
もちろん、私の「これ」であっても工夫を凝らしているのだから進化していく。
当然、その時の「これ」と、極端に言えば明日の「これ」は違うものになっている。

ただ、ここで大事な事は、その「これ」に通底している原理があるということだ。
その意味で先程のこうすればが「仮説」になるのか、あるいは、仮説ではなく、そこが終着点になってしまうのかの違いだ。
そうなると、それがレベル差として定着するのだ。

原理が通底しているから、その原理さえ伝われば、「こうすれば」は様々にあって良いのだ。
しかし、大事なのはその原理は概念ではなく、つまり、言葉ではなく「身体」に定着していなければいけない。
それが身体操作であり、身体文化というレベルである。

年明けのworkshopは岡山です。

■ワークショップのお知らせ
 岡山
1月11,12,13日
 岡山・沖縄

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