落差の大きさが生と死だ

「その事」はまるで無かったように消えてしまう。
その事の印象が強ければ強いほど、その落差は大きい。
それが人生であり、時が経つということであり、生と死である。

そして、その事の「場」は共有するが、それぞれに「印象」は異なる。
人数分の印象があり、それを共有したり強制することは出来ない。
どこまで行ってもそのままである。

しかし、人は印象を共有しようとする。
そこに無理が起こる。
共有する必要などどこにもないにも拘わらず。
「場を共有している」それだけで良い。

その場も、まるで無かったように消えてしまう。
だからこそ、場を生き生きと活かさなければ駄目だ。
無かったように消し去る為に。

古希のコンサートを沖縄で終え、
不思議な印象があった。
それは、それぞれに異なるコンサート会場だったが、全部私の場になっていた事だ。
もちろん、それは本当は違うかもしれない。
本当は、などどうでもよい。
その印象を受けた。

「気恥ずかしい」そんな感じを持った。
例えば、着たことのない正装をし、鏡の中の自分を見た時の気恥ずかしさ。
そんな感じだ。
つまり、観客の人達の反応に気恥ずかしさを覚えたということだ。

コンサートを終え打ち上げ会場で「演奏前、舞台袖で緊張とかしないのですか?」と質問を受けた。
「全くありません」と答えた。
コンサートをすると決め、日常で手を馴らしていく。
ご飯を食べる。
道場で稽古をする。
明鏡塾で稽古をする。
コンサート会場に入る。
一輝と打合せをする。
演奏が始まり終わる。

どこにも「特別」が無かったということだ。
全てが「その事」である。
そして、何事も無かったかのようになる。

■ワークショップのお知らせ
 東京11月28,29,30日12月1日
 東京・岡山・沖縄

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