間違わないのは当たり前。だから、

屋根修理や、大阪でのワークショップを控えているので、熊野に戻った。
山に向けて進むと、温度差は45℃くらいはある。
「寒い」だ。
道場に着くなりヒートテックを引っ張り出して着ている。
水が止まっているので、明日は朝から水出しで水源地まで登る。
時間があれば垂木と特注の野地板の発注だ。
とにかく修理をしなければどうにもならない。

「ちゃんとしよう」「ちゃんとしなければならない」が、自分を煮詰めてしまう原因だ。
しかし、もちろん「ちゃんとしなければならない」それは間違いではない。
「間違ったら駄目」も間違いではない。
しかし、その言葉と実際の間に相当の隔たりがある。

それは、「ちゃんと出来た」への道にあるものは全て「ちゃんと出来ない」だということをどの程度認識しているのか、という問題。
また、「ちゃんと出来た」を実際に分かっているのか、という問題。
それらは、全て頭の中と実際との垣根だ。

本来、そこに垣根は無い。
垣根を作り出したのは、自分自身を洗脳している言葉だ。
「ちゃんとしなければならない」という言葉に洗脳されているのだ。
そんなことは当たり前の事だから言葉化する必要など全くない筈のものだ。

ただ、親が子供に躾の中で口うるさく言うかもしれない。
そんなものは、親子の会話のようなものだから、右から左へ素通りで良いのだ。

ちゃんとしなければならない、という実際は、誰から言われるまでもなくちゃんとやりたい筈だ。
しかし、出来ない。
そうすると、そこで感情が湧く。
「くそ~」だ。

その感情が湧く前に「自分が間違っているから出来ない」と感情を殺してしまう。
どうも多くの人を見ているとこれが一番多いように思う。
だから、「出来た」が分からないし、「出来た」喜びなど湧き上がらないのだ。

「出来た」が分からないのは、実際の行為よりも「自分が間違っている」に意識の方向性が向いてしまっているからだ。
ワークショップでは、そういうことを注意しながらワークを進行させる。

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