一体感が生じる
「日野さん」あるいは「日野先生」日常的な会話だ。
しかし、昔からそう呼ばれた時に「あれっ?」と、自分自身の内的な気持ちか何かは分からないが、思い切りイラつく事があった。
その正体が分からない。
つまり、何にイラついているのかが分からない、何に反応したのか分からないということだ。
もちろん、それは顔には出さない。
社会の中だし、例えば、ワークショップや飲み会なら場が白けてしまうからだ。
とは、いうものの、その反応のまま出てしまうこともある。
今年2月の沖縄ワークショップの飲み会では、それが爆発して居酒屋が静まり返ってしまった。
それの正体が掴めないのだ。
反応された人も、間違いなく同じ社会で生活を送っている。
友達もいるだろうし、家族もあるだろう。
その意味では何の損傷もない筈だ。
だから一応は「違和感」だとしているが、そして、「心を閉ざしている人」としているが、本当にそうかどうかは分からない。
それは心の正体が分からないからだし、閉ざしているということも本当かどうかは分からないからだ。
一体何に反応してしまうのか?
私の持つ先入観からなのか、あるいは、私に対するイエスマンであることを望んでいるのか。
それは有り得ない。
逆にイエスマンにもキレるからだ。
今回の福岡ワークショップでも、その「あれっ?」と自分の反応に気づいた状況があったので、改めて「一体何にだろう」となったのだ。
ワークショップでは、「表現塾」で皆で歌を歌い合うという定番のワークをする。
「聴く」という事がテーマだ。
時間が経つに連れて「聴く」が、それなりに浸透していくと、全体の声がぶつからなくなる。
同時に、皆の内的な動きが静かになり、本当の意味での一体感が生じてくるのだ。
私が望んでいるのは、間違いなくそれだ。
だが、「聴く」を自力で考えられない人、理解できない人の声は「発声」しているだけだから、最後まで邪魔になり全体が騒々しい。
多分、その発声しているだけだから、「あれっ?」という違和感になるのだろう。
次は夏ギラギラの沖縄ワークショップ
沖縄ワークショップ8月10.11.12日