終わってから感じたこと
1回目の演奏が終わり、聞きに来てくれていたチビッコダンサー達が、サインをねだってくれた。
最初はサインを書いたのだが、ふと一言書いた。
そうすると、当たり前だが私も一言を、ということになり全員に書いた。
その子を見ていると浮かんでくる何かを書くのだが、言葉が重なる時もある。
そんな時、想像力を最大限働かせ、適切な言葉を見つける。
子供達は、意味も聞かずそのまま受け取ってくれる。
それが大事なのだ。
「そのまま」だ。
最初はサインを書いたのだが、ふと一言書いた。
そうすると、当たり前だが私も一言を、ということになり全員に書いた。
その子を見ていると浮かんでくる何かを書くのだが、言葉が重なる時もある。
そんな時、想像力を最大限働かせ、適切な言葉を見つける。
子供達は、意味も聞かずそのまま受け取ってくれる。
それが大事なのだ。
「そのまま」だ。
コンサートが終わり、私の中で何かが変化したことを感じていた。
それはなにか?
そんなことを考えていた。
それはなにか?
そんなことを考えていた。
コンサートそのもの、ドラムの演奏そのものに言葉は無い。
いわゆる音楽ではないから、そこに説明も解説もない。
しかし、だからこそ伝わった「何か」がある。
どうして「何か」なのかというと、足を運んでくれた人それぞれが持って帰ったものが違うからだ。
と説明は出来るが、では演奏は?というと説明出来ない。
というよりも、そこに説明が必要なのか?ということだ。
私は説明の必要はないという考え方だ。
演奏自体が説明であり、同時に本質だからだ。
言葉も本当はそうなのだ。
しかし、使われ方が分析的な役割しか持たせていないところに問題があるのだ。
そんなことを感じた。
そうなると、そういう言葉の使い方をしている会話は不毛になる。
つまり、言葉は自分がストックしているものだけで、相手の言葉から想像していく、という作業も入らないということだ。
それは、50年ほど感じていたことだが、それが今回のコンサートで演奏することにより、明確になっただけのものなのだが。
その意味で、もっともっと言葉を知らなければ駄目だとも思う。
それは現代的な意味合いではない。
文学的な意味合いでだ。
歴史の中で使われて来た言葉。
感性豊かな言葉をもっと知りたいと思った。
それは、昔日の歌人などがより感覚的に本質を言い表しているのではないか、と思ったからだ。
私達が使っている言葉は、もちろん、日本語では有るが、西洋的意味を基盤にした使い方が主流になり、それが「分かりやすいから」になっているからだ。
分かりやすいということに意味など無いし価値もない。
「分かった気になる」だけのものだ。
つまり、「気になるだけ」で何もない。
自分自身の感性を震わせ、こころを動かしはしないということだ。
不毛だ。