やり残したことは無いかな
熊野での最後の練習は終わった。
ドラムをケースに詰め、今送り出した。
多分、熊野でもう練習することはないだろう。
こういった、一つのイベントがあるのは面白い。
常にそのイベントに向かって進み、そのイベントが終わると何事も無かったかのように、日常が目の前に出てくるからだ。
だから、やり残したことは無いかと重箱の隅を突っつく。
これがまたプレッシャーに拍車をかける。
そういう時間が好きだ。
もちろん、その日常も死というイベントが終わると、何事も無かった、自分は存在していなかったという状態になる。
だから、これも同じで「やり残していることは無いか」となるのだ。
それが「生きる」である。
息子との共演は、数年前に初めて演った。
度々紹介しているように、ジャズピアニストの田中武久さんの追悼ライブがきっかけだ。
私は元から「息子と」というようなセンチメンタルな心情は持ち合わせていない。
一人のミュージシャンとしてしか見ていない。
だから、具体的に「和太鼓とドラム」というのは、どう絡む事が面白いのか?を考えた。
息子には、どれくらいの音楽性があるのか、あるいは、どれくらい合奏センスがあるのかも心配だった。
ライブでは3回のステージを演った。
もちろん、1回ごとに微調整を重ね、結果「この組み合わせは意外と面白い」を発見したのだ。
息子は6歳の時から武道を徹底的に仕込んだ。
そこで「関係性」を体感させていった。
その事が、「音」を通して実現させることが出来ると分かったからだ。
この「音を通して」という事が、現役の時には頭になかった。
但し、違和感として常にあった。
音は音楽的には関係しあっていることになっているが、実際には、つまり、ミュージシャンそのものが関係するというレベルに達していないし、関係ということすら認識されていないことが違和感の原因だった。
もちろん、これは当時には分からなかったことだ。
「関係性」の実際は、武道では必須だ。
どんな相手とでも、関係出来なければ、不意打ちを貰ったりして、こちらの生命を危機に晒すからだ。
しかし、よくよく考えれば、「関係性」は武道だけのものではない。
社会そのもの、人の社会そのもの、生活そのもの、仕事そのものも、全てが「関係性」で出来上がっている。
極論を言えば、「関係性」こそが人生であり、人類が今日まで生き延びて来られた「核」だ。
その「関係性」を音として、舞台を通して皆に響かす。
それが今回のコンサートを支えるコンセプトの一つであり、私自身が現役時代に問題視したテーマでもある。
一組の「関係」は、その場の全てを巻き込む力がある。
そこを皆さんに体感して貰いたいのだ。
「音」を通しての表現は、今回限りとなるだろう!
6月1日、残り4日。
2回公演ともまだ空席があります。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ