記号としての言葉や音楽は
通訳を通して話すとき、大方の言葉は「記号としての言葉」に変える。
それは、母国語以外はまず記号として学ぶからだ。
そこから感情を表現する為の、感情を伴った、いわば生きた言葉に発達する。
もちろん母国語の場合は、これらは同時進行の筈だ。
しかし、記号としての言葉が勝った場合、つまり、生活体験の浅さや人間関係での葛藤が浅い場合は、記号としての言葉に頼らざるを得ない。
そうなると、深く考えている人とは言葉が通じないという現象になるのだ。
ここを広く考えてみると、どんなことでも同じだと分かる。
記号としての音楽、記号としての武道、という具合だ。
そこを突き破っていかなければ、「生身の人」には辿り着かない。
これもおかしな話だ。
それを考えているのは、間違いなく生身の人間だからだ。
そこを実証しているのが私のコンサートだ。
生身の人間に確実に突き刺せる音だからだ。
まず、前提としての音楽への知識や、造詣が深い必要はない。
そして、幼児からお年寄りまで聴かせる。
幼児が泣いたりぐずっても、全く問題ではない。
逆に、その子達が私の音に引き寄せられ、喜んだり静まり返ったり、ぐっすり寝たりという反応を起こすのだ。
これは、11年前の還暦の時に気付いた事だ。
本当の意味で生の音だから、幼児達にあるいは、お年寄りに届くのだということをだ。