相手から舐められると
権利を主張する前に、義務を遂行しろ、なのだが、その権利の主張は妥当かどうかを考えた事があるのか、と思われるような主張が多い。
その昔、アメリカで大学側の教え方が悪いから、卒業出来なかったと、大学を提訴した事件が報じられていた。
どんな判決が出たのか忘れてしまったが、言葉面だけを見ると一理あるようだ、とも受け取れるし、逆に自分の実力のせいだろう、とも取れる。
だから、一概にはその提訴に乗る事は出来ない。
多分、日本でも提訴には至らないが、こういった思考はどこにでも転がっているのではないかと思う。
例えば、料理人の見習いで就職し、板長が何も教えてくれなかったから、とか、高額の授業料を払ったが、教材が悪すぎるとか、色々あるだろう。
そこのバランスが、行き過ぎると詐欺という事にもなる。
詐欺は別にして、現代なら、自分の勝手な思い込みを、対象のものに押し付けていないか、と自問する必要がある。
どうして現代ならなのかというと、50年60年前は、対象のもの、例えば会社、例えば学校、例えばアルバイト先の条件や状態をまず丸呑みした。
その上で、言語化していない事柄や、人間関係などを見切っていく、という作業をした。
もちろん、ここでは「言語化」だの「人間関係・見切って」と書き出しているが、そういった分別して絞り込み、ということではなく、全て体感で、ということだ。
そういった事を数ヶ月もすると見えてくる。
と同時に、その職場に相応しい姿勢を身に付けていった。
つまり、こちらが何も主張しないから、その職場であれ、職場の人間の在りようを見透せ、尚且つ、その職場に適応した姿勢を身につける事が出来たという事だ。
しかし、これは少し角度を変えれば、「舐められる」という状況を作り出しているともいえる。
しかし、それで良いのだ。
相手に舐められるという事は、相手の弱点やレベル、その組織のレベルを知る事が出来るという事だからだ。
そうなれば、いくらでも自由に泳ぐ事が出来る。
「彼を知り、己を知れば百戦危うからず」だ。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ