遊べば良いだけだ
視点の違いが話を交わらせない。
というのは、自分はどの視点に立っているのかを、全く分かっていないからだ。
視点が違う、ということさえ分かれば、交わるか否かが良く分かるのだが。
例えば、会社があるとすると、そこの経営者の視線、中間管理職の視点、社員の視点、取引先の視点、日本の経済という視点、世界の動きという視点、人間という視点、生活という視点。
いくらでも視点の違いはある。
それは立場によって、あるいは環境によって方向性が現れる。
これらのそれぞれの視点だけを正しいとしていると、全く噛み合うことはない。
もちろん、自分はどの視点で話していて、相手はどの視点で話している、ということを理解できなければ、それぞれの違いを理解出来ない。
しかし、これらいくら視点が違っても、同じ世界で生活をしており、そのことに変わりはない。
つまり、そこが世界観の広さ狭さと言われるものだ。
私は、その意味で生物という視点、生命という視点から物事を見ている。
会社の例えだが、そこに何ら普遍性はないから、私は考えない。
それは、時代が変わればシステムも価値観も全てが変わるからだ。
そういったことは、歴史を見れば一目瞭然だ。
つまり、価値などどこにもなく、その時代の流れ、あるいは、大きな権力が意図した何か、現代なら経済や貨幣・数字という化け物に振り回されているに過ぎないからだ。
それはそれで現代そのものだし、その中で生きているのだからそのシステムで「遊べば良いだけ」で、一生懸命に悩んだり考える必要もないのだ。