こころを開く

今年初の熊野だ。
何時もの坂道を上がると道場が見える。
「あれぇ」だ。
ブルーシートが一枚屋根にかかっていない。
どういうこと?
道場に着くと、見事に風で切れていたのだ。
止めている板から、まるでハサミで切ったように切れていた。
ということは修理をしやすいということだ。
冬の風は、台風よりも強い事がある。
北風がまともに道場に当たると揺れる事もあるくらいだ。
網戸は破れ、ほんまにボロボロだ。
息子が言うように放っておこうか、とも思ってしまう。
私としては人生最後の修理だと思っている。

フランスでは、道場に合宿に行きたいと言われているが、修理中なので無理だと断っている。

「明鏡塾」のテーマである「触れる」ということで、こころに響くお便りを貰った。
一節だけ紹介すると「相手れるということは、自分開放するというか、いてくこととじなのかと感想ちます。」

これはご臨終前祖母を見舞い、祖母の身体をマッサージしていた時の体感だ。
ちなみに、これを書いて送ってくれたのは、世界で活躍する一流の女性音楽家だ。

大方の人は、「触れる」というのは、例えば治療の方法の一つくらいの認識だろうと思う。
しかし、方法の事ではない。
「触れる」とは文字通り「相手のこころに触れること」なのだ。
それは同時に自分自身のこころが開いていなければ、相手のこころに触れることなど出来ない。

しかし、ここに時間差があるのではない。
つまり、こころが開いたから触れることができる、というものではなく、その時、「触れている瞬間」に開いているのかどうかの話なのだ。
大方は、そのこころが開いた体験を持たない人が「こころを開く」などという言葉を使って説明しているから、話がどんどんややこしくなるのだ。

親猫が子猫の毛づくろいをする。
それだ。

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