マサイの人達の手は

大阪で特別養護老人ホームの研修を終え、東京へ戻った。
一寸大阪よりも北と言うだけで、寒さが違う。
「冷た〜」と言う感じだ。

マサイの人達の手の感覚は、地面に付いている動物達の足跡から、何日前に通ったと言うことが分かるそうだ。
また、飼っている動物が病気になっても、獣医さんに診せると言うような習慣も言葉もない。
当たり前だろうが。
マサイの人達は、動物を触りどこがどう悪い、だからどうしよう。
まで分かるのだという。
それもそうだろうな、と思う。
その環境の中で培われている筈だからだ。

必然の中から生まれる能力は、習ったり学んだり出来るものではない。
しかし、そんな手は医療従事者にとって必要な手だ。
この必然という状態は、どこにでも転がっているのだが、おいそれと「必然」には出来ない。
習う学ぶという癖が付いてしまうと、「必然」も自分から切り離された形になる。
別物になるのだ。

例えば、仕事で何かしらの失敗をしたとしよう。
それを、テストで間違ったような受け取り方をし、次はその問題では失敗しないぞ、となるか。
あるいは、その失敗を、自分自身の未熟さや馬鹿さ加減が招いたものだと受け取るか、で全く違う。
もちろん、後者の受け止め方をする人には「必然」は、本当の必然になり、何もかもを考え直すことができる。
しかし、前者の場合の「必然」は、必然という知識にとどまり、根本にある未熟な自分に対して注意を向けるようにはならない。

勿体無い話だ。
失敗を通して学べるものが、単に失敗して、次からはしない、そんな小学生並みの脳の使い方に陥ってしまうのだから。

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