全ては消える、だからこそ
昨日は、ソロコンサートの会場セッティングの打ち合わせだった。
席数確保と、どう見せるかのせめぎ合いだ。
こんな調子で、どんどん当日に向かって走っていく。
そして当日、公演が終われば全ては消え、記憶の中の産物になる。
この盛り上がり曲線と日常に戻るギャップ感が面白い。
全てが消えるというのが、何とも言えなく好きだ。
「何も無かった」かのように、日常に視点が移る。
ドラマーを職業として数々のイベントやコンサート、キャバレーやナイトクラブにホテルで演奏をしてきたが、そこには何も残っていないのが良い。
それこそ、レコードも映像も何も残っていない。
写真はほんの数枚あるだろうか。
そんな状態を私は好きなのだろうと思う。
私を知る人にだけ、記憶の片隅に残っているかもしれない。
それこそ、社会一般的な価値観としての、地位や名誉や経済的成功など一切縁のない世界だ。
私の痕跡の「全てが消える」。
しかし、それは日々同じだし、刻一刻一刻と同じだ。
よく言われる比喩に、新幹線の車窓から見る景色のように、目に見えない速さで全ては消えていくのだ。
「消えてしまう・無くなる」現実や未来に対して全力で向かう。
その果てしない虚しさを全身全霊で体感する。
体感されている瞬間だけが「実」だと、私は生きている。
そんな感じがする。
もちろん、だからどうなんだ?は無い。
そんな感じで70年来た、それだけだ。
来年のコンサート。その瞬間の実感に向けてスパートだ。