またまた、全ては自分次第
「見る」というのも、「勉強をする」というのも同じだ。
自分自身の目的が明確であればある程、目的に応じて絞り込まれ、自分自身に反映されるものだからだ。
そこまで、分かると「見ているもの」はそれぞれに違うということが腑に落ちる。
当然、それはその人自身の全てに適応されるものだ。
「触れる」にしろ「聴く」にしろ、自分自身の目的と比例するということになる。
つくづく、人という生物は「意識」というものを発達させたが故に、難しい生き物になったのだと思う。
もちろん、文化にしろ文明にしろ、その「意識」が作り出したものだ。
それを享受しているのが私達だ。
だから、良い悪いで語る事は出来ない。
ただ、好むと好まざるとにかかわらず、一人の人間が社会という集団で生活する為には、という本筋を抑えて整理する必要があるだけだ。
「見る」ということで、「明鏡塾」を受講する若い理学療法士が「皆を見ていると、どうも腰が引けている感じがする」と言う。
その事でしばらく話を進めた。
彼は「ということは、自分の思っている『目』で見ているだけで、実際の目ではないということですね」と来た。
そうなのだ。
レッテルとしての「目」を使っているのと、自分の「目」を使っているのとの違いだ。
それが腰が引けている、と彼には見えていたのだ。
もちろん、もっと別の捉え方もある。
こんなやりとりが、自分自身の整理に繋がるのだ。
しかし、こんなやりとりは一般的ではない。
彼は同窓生に会うと、話が合わなくて困ると言う。
それはそうだ。
「明鏡塾」では、こんな話が一般的であって、一般巷の会話は逆に特別だからだ。
生きている世界が違うのだ。
この間の日曜日、ハロウィンということで渋谷の街は、若者で一杯になったそうだ。
一夜明けると渋谷はゴミの山。
軽トラックをひっくり返して、大騒ぎしていた動画までアップされていた。
これもある種の一般だ。
そこに紛れ込むのか、一線を画すのか。
全ては自分次第である。