場ということ
「分かる人には分かる」と言うと、それでは駄目となる。
分からない人にも分かるように??が現在の風潮だ。
「分からないから」という、自分自身の知的好奇心を触発させたり、溢れさせる、いわゆる、自己教育とでもいうべき風潮はない。
極端にいうと「分かりにくいのは悪」なのだ。
とすると、私には理解できない数学の世界や科学の世界は、どれだけレベルを下げなければいけないのだろうか。
小学生にも分かる、という必要があるのか。
小学生に分かるのであれば、大学はいらないし高度な研究は要らないし出来ない。
どこまで、こういった馬鹿さ加減が広がるのだろう?
もちろん、良い面もある。
線引きが確実に出来上がってくるということだ。
「分からないから、自分の力で分かりたい」と知的好奇心を溢れさせる人が少数だが生まれてくるということだ。
時代は、そういった人達を生み出すために、この風潮を広めているのかもしれない。
「分かりやすい説明」で分かった気になり、しかもその分かりやすい説明は、自分自身が作り出したものではなく、誰かが作り出したものだ。
自分の頭を一切使わない、自分にとって耳障りの良い言葉だけを頼りに生きる人。
それって、自分が生きているのか?
その自分とは一体何だ?
ということすら、考えられなくなっている。
やはり、時代は線を確実に引いているということだ。
もちろん、それは誰も意図していない。
それが「場」である。