言葉にしない

愚息とのやり取りでの「体感」と言うのは、例えば、突きが当たって効いたとか、突きが速かった、知らない間に投げられた、と言う、表面的な話ではない。
もちろん、これらも体感には違いないが、体感以前の当たり前のことなので、私は体感とは呼ばない。
私のいう「体感」はもっと微妙なものだ。

それは、コルトレーンの演奏が話題になったのがきっかけだ。
愚息の言葉が、「次のステップ」を求めている感じだった。
くどくど言うが、「次のステップ」と言う言葉や、その類の話があったのではない。
コルトレーンの話題での言葉の選び方の感性が、それを匂わせていたと言うことだ。

そこで、音楽という関係性を、小さい頃からの稽古で培ってきた武道の関係性として体感させてみた。
その会話には言葉はなく、仕草と反応している表情の交換だ。
だから、そのレベルが見える人、感じ取れる人でないと分からない。

もし、ここに言葉を介在させたとしたら、全く別の結果になっただろう。
もしも言葉にするとしたら、数年後だ。
その感覚が身体か意識にか分からないが、とにかく定着した時、初めて言葉として考えればよいことだ。
どうして、言葉にしてはいけないのかは、感覚が定着していないから、自分の持つ言葉に誘導されてしまったり、感覚を決定してしまったりするからだ。
折角の伸びしろをゼロにしてしまうのだ。

それは、その時に持っている言葉は、自分にとって過去の言葉だからだ。

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