息子との会話
「強くなりたい」という子供の頃の希望と言うか理想は、知らない間にどこかへ消えた。
何時消えたのか?いくら思い出そうとしても思い出せない。
では、今その「強くなりたい」は無いのか?というと、そうではない。
質が変化したとでも言おうか、昔のそれではないという感じだ。
もっと、世界が広くなっている、と感じる。
これは「世界観の狭さ」あるいは「枠」と重なる。
先日愚息が来た時に、相当深い話をした。
もちろん、それは「感じ取る」ということで、言葉での深い話ではない。
その最も深いところが「関係」だ。
しかし、その「関係」の感でも、深浅がある。
もちろん、目指すは一番深いところだ。だが、そこは真っ暗闇で照らす光も、針の穴ていどの光も見えない。
ただ、現在の「状態」を突き進め前に向かうしかないだけだ。
武道の技を具体的な形でやりとりすると、愚息は「感」は体感しに身体操作として出来る。
そして私と共通の「音」での感。
いずれも共通するのは「こころが震える」だ。
その時の状態は「関係の中にいる」と表現できるが、実際は「そのこと」だけになっていて、コントロールしている自分が無い、という状態だ。
ここで一挙に世界観が現れる。
「その時自分が無く、そのことだけ」だから、世界観も無いのだ。
世界観という決め事を自分が作っているだけで、実際にはない。
その実際というのは、「その時、自分が無く、そのことだけ」の世界なのだ。