他人の話を
沖縄で、ある男性から相談を受けた。
会話の中で「好かれたいと思っている自分・皆から受け入れて貰いたいと思っている自分がいる」とのことだ。
この相談は、初めてではない。
この男性からも初めてではない。
当初、その「好かれたい・受け入れて貰いたい」ということに対して話をしていた。
もしも、そう思うのなら、そういった行動を取ればよい、思うのではなく行動をしろと答えていた。
しかし、よくよく考えてみると、本当に人から好かれたいと思った事があるのか?という疑問が湧いてきた。
そこで、会話等の時、あるいは、日常で他人に対してそんなことを思っているのか?と質問してみた。
すると、しばらく思い出し、「ないと思う」ということだ。では、どうして「好かれたい・受け入れて貰いたい」という言葉が口から出るようになったのかだ。
それは、ある自己啓発セミナーに通った結果、その男性の挙動から、挙動のおかしさの原因は「好かれたい・受け入れて貰いたい」ということだと言われたという。
その男性は、セミナー主催者の経歴から信じてしまったそうだ。
結局、その男性はそういった社会的権威のようなものに弱いということでもある。
もっと、他人の言葉を聞け、疑問を持て、これは、常に話すことだ。
もちろん、私の話も含めてのことだ。
私は「私の言うことを聞くな」と言う。
もし、私の言葉にピンとくるなら、その言葉が自分の口から、自分の言葉として出るように生きろ、という。
つまり、「単純な納得」で終わらせるな、ということだ。
この辺りが難しい。
鵜呑みにしろ、という場合もある。
それは、例えば、「グーッという感じ」と何かの所作に対して説明したとする。
その場合、この「グーッと」を翻訳することは出来ない。
だから、その感じになるまで、所作をやり続ける必要があるのだ。
その場合、鵜呑みではなく、自分なりに言葉として考えると、決して「グーッと」にはならない。
そういった選択を、常に求められているのが社会での会話や生活だ。
ここを工夫しなければ、社会的な視野や広い世界観は育たないのだ。