現実感は言葉が誘導する
昨日、エッセーの原稿を書いていて、はたと気づいた事があった。
それは、その状況を感じ取る「現実感」の事だ。
辞書には「実際に体験する感じ」「目の当たりにする感じ」と、私にとっては意味不明の事が書かれてあった。
現実感はRealityとして、舞台演出の時やそんな話、もちろん、武道の稽古でも使う。
もちろん、分かったような分からない感じで、ある意味雰囲気で使っていた。
「現実と現実感は違う」という使い方もしている。
それは、表現ということでの話だ。
「現実感がない」とエッセーでは書いた。
その時「あれっ?」となった。
それこそ地球の自転の速度が速まった感じだ。
「現実感」とは、現実と自分自身を繋ぐ橋のようなもので、現実に対して、自分自身が実感を伴って紡ぎ出した言葉が有るのか無いのかが、その現実感を想起させるのか、させないのかということだ。
つまり、実際目の前で起こっていることに対して、自分が実感を持つ言葉を持っていなければ、それは単に目の前で起こった出来事だけで通り過ぎていくということだ。
ここに自分の言葉が関わると、たちまち脳を総動員し、自分自身のものとして、自分自身の現実感が湧き上がるのだ。
だから「現実感」は、自分自身が実感を伴って使う言葉、というところが鍵になる。
ここに知識や誰かの言葉をはめ込むと、そこに現実感は湧き上がらない。
あくまでも出来事との関係は客観でしか無いのだ。
例えば、台風が直撃し家が壊れたとした時、「台風で家が壊れた」という言葉は、自分の言葉ではない。
それは何の実感も無い全部既成品だ。
だから、ダメージを受けない。
ここでいうダメージは、マイナスの意味合いではない。
自分には届かないという意味だ。
自分に届くから「だからどうする!」という、気持ちが奮い立つのだ。
もちろん、それは自動的に起こることであって、「そうしよう・そう思おう」というものではない。
自分自身の実感が持つ言葉は、身体の持つ働きを働かせるのだ。
日常会話で「この人、何を話しているのだろう」と思うことが多々ある。
それは、知識と誰かの言葉の羅列だからだ。
感情のない、PCの音のようにしか聞こえないのだ。
こういった人には悲しいかな「現実感」は無いのだろうと思う。