何が何でも!これ以外に自分を動かす法はない

「自己評価」がやけに高いのはどうして?となるのは、その人の言動と一致していないからだ。
言動は、主体である自分から発しているので、客観的に知ることは出来ないことが原因だ。
それは「武禅」であれ、「明鏡塾」であれ、常に使うことで自分を撮ることで、自分を知り驚く。
「出来ていると思っていた」大方はこれだ。
そこですかさず、「一寸待って、過去何十年間生きていて、今やっていることを意識的にやったことがない、初めてやることで知らないことなのに、どうして『出来ている』と思えるの?」つ突っ込む。

私も自己評価はやけに高い。
しかし、それは他人に対しての時だけだ。
そんな話もする。
他人に対して、というのは、例えば誰かとの話の中での私自身の自己評価については、すこぶる高いのだ。
それの方が話が面白いからだ。

しかし、私自身が私自身を評価した時、最低に評価している。
それは、卑下しているのではない。
正当な評価だ。
「自分よりも出来る人はいくらでもいるだろう」と思っているからである。
だから、「よっしゃ、そこに追い付いてやろう」と奮起するのだ。
その意味で、例えば、武道を教えたり、明鏡塾で指導をしたり、というのは、本当の意味では自己評価とは結びついていないのだ。
だから、未だにこそばゆいのだ。

ただ、私の知る限りの連中よりは、少しはましか、と思えるから、そして、周りの人が教えて欲しいというから、そうしているだけだ。

この「どうして出来ていると思えるのか、思ったのか?」ここを本当に突っ込んで欲しいのに、大方は笑ってすます。
あるいは「そうですねぇ」と、何を納得したのか分からないが、納得して解決する。
終わってはいけないのだ。

「出来ている」と思った自分自身の馬鹿さ加減は、どうして起こったのかを記憶の中から探り出して欲しいのだ。
そこに気付き、そこを訂正すれば、どんどん前に進む自分が顔を出す可能性があるのだ。
それは、私自身がやっていることだ。
新しい事に取り組む時は、出来るなどという言葉は持っていない。
それよりも、「どうして、どうする」というような、具体的な行為を考えるからだ。
もちろん、それ以外の言葉は無い。

つまり、「出来る・出来ない」という言葉を持って、行為をしたことが無いということだ。
結果、出来たになるだけだ。
出来る・出来ないではなく、「よっしゃやってやる・何が何でもやってやる」があるだけだ。
だから、「どうすれば」と工夫をするのだ。
それを5年でも10年でもかかって取り組む。
そうすると、その時間の中で諸問題が現れてくる。
それを解決していくことで、出来た自分が現れた、それだけのことだ。
だから、大事なのは「何が何でもやってやる」「どうすれば」とやり続けること。
それ以外にはない。

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