大きなお世話なのだろう
そろそろ武道ということでの、オープンのワーク・ショップやセミナーを止めようと思っている。
それは、私が考えていることと、皆の思う「武道」が全く違うからだ。
それを説明しても理解は出来ても、実際として稽古をするのは無理だからだ。
皆の思う武道は、巷に星の数ほど有る身体セミナーや講座、あるいは教室で充分に事足りるからだ。
「喉が乾いていない馬を水辺に連れて行っても水は飲まない」40年前に義弟が話していた事だ。
水の匂いを嗅げば、喉が渇いていることに気付くかもしれないと、淡い希望を持っているから、確かにその通りだけどやってみなければ分からない、という私の持論で広く伝えようとしたのだ。
大阪の教室と東京の教室、そして本部だけで細々と稽古をするのが性に合っているのかもしれない。
そんな事を考える。
少数の稽古の目的を理解している仲間たちと稽古をする、それで私としては十分だ。
先日、「大きなお世話」と書いたが、大きなお世話なのだとつくづく思う。
日本語も通じない人がいる中で稽古をしても、楽しくも何ともないからだ。
先日の大阪でのワーク・ショップに、福岡から出てきてくれた15,6年前の生徒が「以前よりも増して、日野先生を握った自分の手の中の先生が消えていく感覚に、笑ってしまうほど衝撃を受けた」とブログに書いてくれていたが、そういった具合に「技術そのもの」を追求したいのだ。
そんな事は誰でも理解しているだろうが、結局のところやりたいようにしかやれない、つまり、「身体技術」ということを余りにも分かっていない人に伝えるのは無理なのだ。
しかし、ワーク・ショップにも参加してくれていた一番古い生徒の74歳の女性は、ちゃんとそのことをしようとする。
そうすると、背中が曲がった年配の女性でも出来るのだ。
その事にショックを覚えない人達とは、一緒に稽古は出来ない。
古希という年齢を迎え、ワガママを通してやろうと強く思ったのだ。