本当か???
打ち上げの席に睦念さんが飛び入りした。
お陰で、相当深いお話をすることが出来、旧交を温める事が出来た。
睦念さんを囲んで、色々な人が言葉をかけた。
それを見ていて、非常に違和感を感じた。
まず、一つ目は距離感がまるで無いことだ。
もちろん、具体的な距離ではなく、精神的な距離だ。
横から見ていると、まるで同年代の「友人」や「連れ」のような感じだ。
言葉こそ敬語的な、あるいは丁寧語的な言葉を使ってはいるが、まったくもって睦念さんに対する敬う気持ちが、言葉にも態度にも現れていないことだ。
もちろん、睦念さん自身は「敬ってなんていらないよ」とおっしゃるだろう。
しかし、それとこれとは別だ。
話しかける人は、何らかの形で睦念さんを知り、あるいは、美術館へ行き作品にふれ、という人達だ。
当然、睦念さんは少なくとも「連れ」だとは思っている筈はない。
しかし、実際の態度は「連れ」にしか見えないのだ。
そして、話題も本当にくだらない話をする。
あるいは、自分をアピールしている。
「一寸待て、お前ら、しょうもない話をするな、睦念さんがお前らの話につきあっているのは、睦念さんのサービス精神がそうさせているだけと分かっているのか」
と途中で怒鳴ってしまった。
このことを、考えてみた。
睦念さんが目の前にいる。
もちろん、みんなは睦念さんだと認識している。
「本当にそうか?」
睦念さんを認識しているというのは、見た目の話ではない。
少なからず、睦念さんの歩んだ道、あるいは、作品に取り組む姿勢、また、美術館やグッズを販売する店舗を経営する人でもある。
そういった、ことを自分という人間の歩いてきた人生を通して、ということがこの場合の認識なのだ。
そこを認識しているのなら、くだらない話をしようとは思わないだろう。
せめて何かを聞き出そうとするのではないだろうか。
そこから考えると、どうも皆が話しているのは、目の前の睦念さんではなく、レッテルとしての睦念さんでしかないのではないか。
また、話すことも単にレッテルであって、自分が見つけた問題の話ではない。
だから、レッテルにレッテルを貼っているだけで、相手との会話にはなっていないし、なる筈もないのだ。
「わ〜〜、睦念さんだ」は良い、その後に「わざわざ、お忙しい中を、そして貴重な時間をありがとうございます」という気持ちが働かないのだろうか。
そして、何よりも、睦念さんは、私の古希を祝に来てくれていることだ。
そこをすっ飛ばして、一体何をするのか、というのだ。
沖縄ワーク・ショップの常連の人達、主催してくれている人達は、誰も睦念さんの周りにはこなかった。
折角の私との時間を気遣って来れたからだ。
逆に、若い人たちが周りに来るのは良い。
二人の会話をひたすら聞けば良い。
パクれるものはいくらでも有るからだ。
口を出すな、考えるな、感じていろ、なのだ。
ここで明確になるのは、「気持ちはマニュアル化されていない」ことだ。
つまり、習っていないし、誰からも教わっていない事は出来ない、ということだろう。
そうなると、気持ちなる得体の知れないものも、自然成長的には成長しないということだ。
そりゃそうだ。
40歳になろうが、50歳になろうが、中学生並みの気持ちしか持たない人が沢山いる。
全ての人が突出した何かが有る必要などどこにもない。
ただ、年齢相応の人間になる、それが、人間として生まれてしまったからには、成さなければならないことではないかと考える。