意味が無いから、意味が生まれる
角度を変える、視点を変えることで、見えているものの価値が見えてくる。
変な日本語になっているが、視点が変わらないと価値というものを作っている「意識」が見えないということだ。
単純に言えば、よくあるように、外国に行くと日本の良さが分かる、というようなことだ。
これは相当昔から「どういうこと?」と疑問を持っていたことがある。
日本では「行」という形式と言うか儀式と言うか、精神に対して働きかける手段がある。
有名なのは千日回峰行で、阿闍梨という位になる為のものだ。
確かに大変な事だ。
また、一般の人も参加する大峯山縦走というのもある。
こちらは修験道の行だ。
これも大変では有る。
切り立った崖を登ったり、その崖から身を乗り出すことで、絶体絶命を味わう。
しかし、飲まず食わずで行うヨーロッパのアルプスレースや、砂漠を横断するレース、挙げ句の果ては、凍傷になりながらでも達成しようとする北極でのレースもある。
エベレスト無酸素登頂というのもあるし、太平洋横断レースもある。
それらのレースは、どれもこれも過酷を極める。
それこそ参加する人に「どうして?」と疑ってしまう。
「前回リタイヤしたから、今回はリベンジだ」というような動機でレースに参加している人も沢山いた。
切り立った崖を登ということでは、フリークライミングの人など本当に生命を賭けて登っている。
ここに、その事に取り組む「意味付け」の違いや有無が、それらを成立させている事が見えてくる。
先日の、フランスTVの取材の時、スイスから受講しに来た若い青年は、極寒の時期滝に浸かるのが好きだという。
そして凍る寸前の湖で泳ぐのも大好きだそうだ。
自分の姿を動画に撮っていて見せてくれた。
思わず、首がすくむ。
そこに精神の何かを求める姿は微塵もない。
だから、それは行でもなければレースでもない。
という具合に、視点が変われば、「その意味に意味があるのか」と教えてくれることも沢山ある。
意味は、自分が作り出すことであって、「それ自体」に意味など無い。
だからこそ、多種多様な意味が生まれ、価値が生まれ、それに惑わされてしまうのが私達なのだ。
今年は、そういった事を自分の中から洗い出す年にしてやる。
大阪1期明鏡塾は1月27日からです。
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