からだが答えを現してくれている

先日、外付けハードデスクが上書きされてしまい、その復旧で数週間かかった。
復旧された書類を整理していた。
不必要な書類を全部捨ててやろうと思ったからだ。
どうも性分として、「貧乏性の勿体無い」があり、溜め込んでしまうからだ。

2.3年前に書いた文章を読んでいて、「陳腐、アホか!」と感じる。
もちろん、そう感じないものもあるが、この差は何か?だ。
私の何が働いている時の文章は陳腐になるのか?だ。
これは、世に出回る新製品の類と重なる。
古く感じるものと、何時迄も新しく感じるもの。

そう言えば、40年ほど前のライブ演奏。
これは今の耳で聴いても新しい。
というよりも新鮮だ。
「どうして?」と自分を突っ込んで行くことで、何かしらの普遍性を見つけ出すのが面白いのだ。
そんなことは、本屋にいっても、図書館にいっても並んでいない。
自分自身の構造図を作り出し、そこから普遍へと歩いていく。

「どうして?」から、様々な仮説を立てる。
切り口を考え、そこから推論していくのだ。
そして再びライブ演奏に戻る。
行きつ戻りつ、その繰り返しだ。

思えば、そんなことを知らず知らずの内に20代からやっている。
トリオで演奏をしていて、この演奏は関係していないと感じだし、「関係」ということに視点が釘付けになった。
それからの人生は全て「関係」という視点から始まっている。

そのトリオの演奏で、どうして関係に違和感を感じたのかは分からない。
何故か「違う」と感じたのだ。
それから色々編成や、ミュージシャンを変えて試みたが、関係していないし、関係出来ていなかった。
一体私は「関係」を何だと捉えたのか?その問題を解く旅が、この時に始まったのだろう。
「違う」という違和感を、私の力では言語化出来ないからだ。
もちろん、今も手探りだ。
しかし、私の言う「関係」という現象は、どんどん明確化している。
その意味では、からだが答えを現してくれているのだろう。

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