ただのおっさんでも
どの場合でも、打ち上げで色々な話をする。
それは受講者からの質問に答える場合も、こちらからフル場合も有る。
で、昨日も話しをした。
どうしてこんな話をするのだろうか?と、ふと、話している自分に気付く。
我に返るのだ。
自分を認めて欲しいからか、自分を一段上に見せたいからか、その事を問うてみる。
そんな自意識は、何時の頃からか無い。
あるいは、中学生の頃から無かったかもしれない。
と自己分析をする。
それは、「こうしたい」をやっている結果、その結果だけを見ている他人、第三者からの目、視点に、私は全く興味がなかったからだ。
他人からどう見られたいのか?に対して、「どうとでも見てくれ」なのだ。
現在として、この真意を言葉に出来る。
ケーキ職人は、美味しいケーキを作ろう、ということが目的で、作られたケーキの味わい方を押し付けているのではないし、押し付けられない。
人は違うからだ。
人それぞれの「美味しい」を味わってくれたら嬉しいのだ。
音楽然り、絵画然りだ。
提示された「何か」は、それを見た人、聞いた人、味わった人のものであり、評価は自由だということだ。
そして、それが実際のひとそれぞれのこころの中身だ。
その事を自覚したのは、ジャズの世界に入った頃だ。
演奏という表現と観客ということを考えた時に気付いたものだ。
だから、「どう見られたい」という幼い自意識は、この頃にケリを付け飛躍的に成長したのだ。
私はただの「おっさん」だ。
では、どうして昔話をするのか?
それは、私はみんなとは違い、世間の価値観の影響を殆ど受けていない。
にも関わらず、こうして生きている。
もちろん、人生には山ほど波風はあったし、これからもある。
でも「我が道」を生きている。
だから、窮屈な考え方に縛られず、窮屈なレールを外しても構わない。
自分で「こうしよう」と思い立ったことで、生きて欲しい、生きることが出来るよ、というメッセージだと気付いたのだ。
言わば、私は「自分として生きろ!」と叫ぶメッセンジャーなのだろうということだ。
ただの「おっさんでも生きてるんやで!」である。
これは、多分私の年齢が気付かせているのだろうと思う。