感覚の鋭さに際限はない
先日「明鏡塾」の5期が終了した。
その打ち上げ会場に向かう時、ずっと手伝ってくれている理学療法士が、「今日、はじめての感覚がありました」と、そのエピソードを話してくれた。
もちろん、それは彼の感覚だから、私に分かる筈もない。
彼の言葉と状況から想像するしかないのだ。
しばらく、彼の言葉を考えるのと、感覚とは何かを改めて頭を駆け巡らせてみた。
感覚そのものは、パラボラアンテナで拾っているようなものだから、それを解析する精度が上がったということだ。
つまり、彼の視点や思考が、深くなったのか広くなったのか、によって、その新しい感覚として、実際を体感したということだ。
「感覚を鋭くしたい」と思う人は色々なジャンルで、色々居られるだろう。
もちろん、感覚を直接鋭くすることは出来ない。
自分の視点や視野を変化させれば、感覚はそれに応じて鋭くもなれば、鈍くもなるものだ。
そういったことは、色々な業種の熟練した人を見れば一目瞭然だ。
例えば、よく取り上げられている町工場のおっちゃん。
旋盤技術が世界のトップクラスだから、NASAから発注されたりする。
そういったおっちゃん達の感覚は、時間の中で、そして、おっちゃんの意志や想いが作り上げたものだ。
単に旋盤を経験しているからといって、磨き上げられたものではない。
あるいは、宮大工の棟梁、匠や職人と言われる人達。
そういった人達の磨かれた感覚は、一朝一夕で創り上げられたものではないということは誰にでも分かる。
私は、感覚とはそういったものだと考える。
つまり、自然に備わったものではなく、磨き上げられて行くもの、創り上げられて行くものということだ。
そして、身体の持つ感覚は、際限ないのではないとさえ思えるのだ。
つまり、その人が望めば望むほど、感覚は鋭くなっていくからだ。
しかし、そこには「実際の」という作業や行為が必要だ。
決して「思う・想像」だけでは獲得出来ないし、その匠というレベルには行かないものだ。
身体を「感覚していく」
大阪のワークショップは11月18日からです。
http://hinobudo.wixsite.com/workshop/workshop