他人を不快にするのは
大阪では「しんきくさい、顔をするな」という事がある。
今改めて「しんきくさい」と書いてみると、一体どういうこと?となった。
昨日の「うっとおしい」は、もしかしたら大阪人だけしか感覚的に分からないかもしれない。方言というのは、それほど感覚と密着しているということだろう。
「しんきくさい顔」が度を越すと「うっとおしい」になるのかもしれない。
あるいは「うっとおしい」の中にそれが含まれているのかもしれない。
いずれにしても、他人を不快にする顔であることは確かだ。
その事をしらない「うっとおしい顔・辛気くさい顔」をしている人は不幸だ。
自らで、自分の可能性の限界、あるいは、可能性の幅を狭めているということだからだ。
逆に「明るい顔」は、周りを明るくするし、他人から取っ付きやすく感じられる。
もちろん、「元気な顔」も同様だ。
しかし、これは人工的に創り出すことはできない。
つまり、筋トレの如く、表面的なトレーニングでは作れないのだ。
その人が「明るい人」「元気な人」だから、その顔になるのだ。
真面目くさった顔も、周りに緊張感を与える。
もちろん、表情のない顔も同様だ。
目付きも同様だ。
意志を持たない目がこちらを向いていると、不快極まりない。
「何か言いたいことがあるのか?」という感情を湧き上がらせるからだ。
「何か?」と問うと「いえ、何も」となる。
明るい顔や元気な顔が、街からどんどん消えていく。
それが当たり前になって来るのも時間の問題だろう。
誕生間もない赤ちゃんは、例外なく可愛い。
人は、基本的にそこから成長しいてくのだが、どこで何が欠損したり、過剰になったりするのだろうか。
今一度、自分を振り返ってみたらどうだろう。
そのうっとおしい顔を作ったのは、間違いなく自分自身なのだから。
「武禅」のレポートを引用すれば「出来ない自分に泣くのではなく、出来ない自分にしてしまった自分自身に泣かないといけない」である。