現場を持っていても、持っていない人もいる

現場を持っており、自分に突き付けられている環境があったとしても、自分に突き付けない人もいる。
もちろん、それも自分では気づいていない人だ。
これは厄介だ。
自分で気付いていないのだから、「あなたはこうですよ」と第三者からの忠告やアドバイスがあっても、それを「理解できない」からだ。
これは言語的に理解できないというのではなく、自分として理解できないのだ。
それは、自分は「自分の思っている自分」だから、他人がいう自分は間違っていると信じて疑わないからだ。
あるいは、「自分」ということを考えた事もないからだ。
それとも、そういった認識もなく、自分の中以外で起こっている現実は、一切関係が無いという認識しか持たないのだ。
これは知能とは、全く関係がない。
何かが歪なのだ。
そういった人と接するたびに、SFではないが、世間には次元という目に見えない層が有り、その層は交わらないものなのだが、実生活では交わっているように見えているだけなのではないかと想像する。
それは、私達は同じ平面上で過ごしていると認識しているからだ。
その枠も取っ払うと、意外とその次元層が見えるのかもしれない。
人は、どこまで行っても自分の頭の中、つまり、意識の中の住人だからだ。
その意識というものを介在させなければ…。
もちろん、そうなのかどうなのかは分からないが、私はそこを取っ払う為に「感覚」を重視するという手法をとっている。
もちろん、その感覚を言語化しては駄目だ。
そうすると、意識の住人になってしまうからだ。
つまり、動物の持つ感覚と、そこを基本とした思考を作り出そうとしているのだ。
先日、久しぶりにムツゴローさんを画面でみかけた。
私は、ムツゴローさんの持つ感覚が、人間という動物にとって一番必要な感覚だと思っている。
画面では、初対面で暴れん坊のチンパンジーと仲良く過ごす姿があった。
もちろん、チンパンジーや動物と仲良くなれ、というものではない。
その感覚を持てば、意識の中から飛び出せ、人は知らず知らずの内に関係できるからだ。
「独立しているが仲良く」という実際化である。

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