テキ屋の兄さん

武道には「気合術」なるものがあります。
全く見たことはありませんが、想像は出来ます。
その想像を頼りに、昔は稽古をし続けました。
 
日常で、例えばカフェで、例えば居酒屋で、そこは多くの人たちの話し声、笑い声で一杯です。
思わず「やかましい!」と怒鳴りそうになります。
しかし、大方の人は「当たり前」だと思っています。
どうしてやかましいのか?
それは、誰が誰に話しているのか?の意志が全くもって不明確だからです。
もちろん、お酒が入った場合、多少聴覚にも影響がありますから、声が大きくなるのは分かります。
しかし、大事なことは声の大きさではなく、その人に話したい、その人の話を聞きたいという意志が有るのかどうかです。
その事が、声に指向性を与えるのです。
 
その意味で私はワーク・ショップでも教室でも言います。
「まず、自分は本当にその人と話したいのかを問え」と。
しかし、私たちは社会で生きています。

ですから、「その人」という特殊なケースではなく、誰にでも「その人」でなければならないのです。
 
どうして、この事を改めて書くのかというと、その相手に向かう意志が「関係」という化学変化を起こす唯一のものだからです。
それは口を酸っぱくして言っています。
「関係」という化学変化を何時も体験するからです。
もちろん、オカルトやスピリチャル系ではありませんよ。
れっきとした生物の能力ですから。
 
「気合術」は、確かに気合ですが、残念ながら声の大きさではありません。
意志の強さというか、濃さというか、そういったものです。
こればかりは、習うことも学ぶことも出来ないのです。
自分自身が「この人に」と思うのではなく、意志が向いているのかどうか、それが全てだからです。
 
ここでは「本気で」ということで、その事を分かり易く書いてくれています。
今期も「明鏡塾」を受講してくれている、整体師のレピーターの方です。
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明鏡塾では「声を届ける」が「関係性」を追求する上で重要な稽古として行われています。
やり方は至極簡単で正面の相手に歌なり挨拶なりを発するのですが、実はこれがとても難しいのです。
普通なら正面の相手に声を掛けるのだから当然届いていると思われがちですが、それは声が聞こえているだけで届いてはいないのです。

つまり日常の生活においてもそれが成立している、つまり届いていない生活なのです。
そして今の5期の明鏡塾でも、その稽古に私を含めて皆さん大変苦労をされていますが、5回目の明鏡塾が終わり、家路に帰る中で自分の子供の頃のある光景を思い出したので書かせて頂きます。
 
私の子供の頃は、遊びと言ったらメンコやベーゴマでしたが、それに飽きるとよく近くの商店街に行ったものでした。
何が目当てだったのかと言いますとその頃は自称舶来の時計(バッタもの)や怪しい外国の化粧品を売っているいわゆる啖呵売をしているおじさんが目当てだったのです。
  略
しかし夕方などの忙しい時間帯には商店街の歩く人たちも中々商品には目もくれず素通りするのですが、その時にこのおじさんの力が発揮されるのです。
それは「そこのお客さん!」という声であり、声を掛けられた人は思わず振り向きおじさんに近寄ってくる、そうなるとこの人の話術にはまりそこから動けず、そうなると一人二人と誘蛾灯に集まる蛾のごとく別のお客さんも集まり怪しい商品は売れていく。
そんな状況を楽しく眺めていました。
ただ不思議だったのは「そこのお客さん」の一言で振り返る事でした。
  略
そしてこの時に一緒に観ていた悪友と「これは何かあるな」と話し合い、意を決しててそのおじさんに聞いてみたのですがその答えは
「若い奴らは本気で売りたいと思っていないだよ。でも売りたいと思うだけではダメ。気持ち、気持ちが大切なんだよ」と至極小学生にも理解できる言葉でした。
  略
そして最後に流れゆく人の中で「あのサラリーマンに声を掛けるから」と言い、そのサラリーマンが通り過ぎるとしばらくして「そこのお客さん!」の一言。
勿論振り向き最後は怪しい万年筆を買っていきました。

  略
色褪せた子供の頃の風景の一瞬を垣間見た他愛もない、でも私にとって大切な思い出でした。
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理屈では説明できない「本気」という言葉で、このテキ屋のお兄さんは説明しているのがいいですね。
本気しか、誰かに届かないのです。
そして、それは医療従事者にとって必須の能力です。
もちろん、一般の方も必須の能力ですよ。
福岡でも岡山のワーク・ショップでも、稽古しますよ。

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