3人目の視点
私のワーク・ショップや教室では、2人組み稽古が多い。
それは常に「関係性」ということの体感を目的としているからだ。
組みでの運動が出来ることはもちろん大事だが、そこで生じる感覚を体感する事が主な目的だ。
体感というところで、汎用性がでる。
だから、一般の人にも役に立つのだ。
そこでもう一つ大事な稽古が登場する。
客観的視点だ。
2人組の稽古を、3人目の人が観察し判断するのだ。
この目は大事だ。
その二人を見て、そのテーマ通りにやれているのかを「看る」稽古だ。
この目を持っていなければ、「何を見ているのか分からない」状態だからだ。
武道では「見視観察と看(けんしかんさつとかん)」という見る種類を現す言葉がある。
その最後の「看る」だ。
もちろん、この視点は勉強と同じで、その方向で稽古して行かなければ、養われることはない。
もちろん、直感的に分かる人もいる。
しかし、直感的だから、それは「どういうことか」は分からない。
生きる上ではその両方が必要だ。
直感的な人は、「どういうことか」を探求する必要があるのだ。
もちろん、知識としてではなく「生きる」という実際を通して、という事だ。
この3人組での稽古を見ていると、自分は正しいと無条件で思っている人が沢山いる事が分かる。
もちろん、自分の世界においては、全ての人は正しい。
ただ、そこで行われているテーマを理解し、判断するということに関しての目が正しいとは言えない。
ということを理解していないということを知らない。
だから、自分の正しさを相手に押し付けてしまっているのだ。
「相手の話を聞いている、聞いていない」という入口のワークでも、お互いが向かい合って、目を見合っていれば「聞いている」と捉えるようなものだ。
そこで、サンプルを提示する。
「目を開いているだけ」「観察している目」「聞いていると思っている目」「睨みつけているだけの目」「無視している目」これらのサンプルを見た時は、全員「成る程」となるが、いざ3人組になると、すっかりそのサンプルを忘れ、自分の価値判断で「うん、あなたは確かに人の話を聞いている」とコメントしているのだ。
それが世間一般だ。
人を育てるというのは、その人のレベルの一つ上のレベルを要求することだが、大方の人は人を育てるのではなく、壊しているのだ。