遊びの中に本質がある
武道の達人。
その技や境地をどうしても知りたい、そんな事が武道への入口だ。
不思議に「強くなりたいから」というのは無かった。
色々考えて行くと、どうしても避けて通れないところに行き着いた。
それが身体の構造や機能だった。
まずは、植物系で捉えるようにしていった。
この頃は、伊藤一刀斎の「身体に備わる機能を全部使う」という言葉は頭には無かった。
単純に「生命」というところから、そして重力に影響されている前提、というようなところからの「身体」だ。
その身体の構造としての骨格を考えた時に、日本の伝統的な建造物が頭に浮かんだ。
そう、周知のように釘を使わずに組み木で建てられているのだ。
そして、何よりも基礎になる床束を、土台の石の上に乗せているだけである。
その事を改めて考えた時、骨格と同じ様に関節に遊びがあるという事に気付いた。
「遊び」ということが、骨格という構造、建造物という構造を、建立された状態を保持している、つまり、強いのだということに気付いた。
そこには、自然災害としての地震や台風と対立するのではなく、共存しているという本質が潜んでいることに気付いたものだ。(これらは拙著「こころの象」で詳しく触れている)
先日、京都の武徳殿で毎年行われている、フランスからのツアーの人達と稽古をした。
稽古が終わってからの観光で三十三間堂へ行った。
三十三間堂は平清盛の時代1165年に建立、一度火災で消失し1266年に再建されたものだ。
軒下は121mある。
その121mある廊下というか軒下というか、その水平はなんと1.000年以上保たれたままなのだ。
現代の建築技術からもってしても、あり得ないという。
この三十三間堂を建てる時、建物の敷地なるべき地面を掘り返し、石ころと粘土層を、まるでケーキのミルフィーユのように重ね合わせて作ったのだ。
つまり、乱暴に言えば、水の上に浮かせておけば、地震で建物が崩壊することも、構造が狂うこともないという発想で作られているということである。
つまり、全てに「遊び」があるということだ。
「遊び」という言葉は、どれだけ深いものか、こういう実際を知った時に、改めてそれを考えなければならないと思ったものだ。