腑に落ちてどうするの?
腑に落ちるという言葉がある。
また、気づくという言葉がある。
どちらがどうなのかの、厳密な違いを知らないが、私としては「腑に落ちる」というのは、自分の持つ様々な問題、あるいは疑問が、何かしらのヒントで氷解した、という感じだろうと受け取っている。
「気づく」というのは、同じ様に何かしらの問題や疑問があり、それらに対して根底から全てを理解してしまうことだと取っている。
ここの現象的な違いは、気づくは一瞬の出来事で、それこそ一瞬で目が覚めるという感じだ。
一瞬でその人間が成長する、過去の自分から脱皮する、自分の枠が外れてしまう。
そういう事だ。
そこから言うと、私が言う人の成長は、一瞬でしか起こらないといえるのだ。
私の言う成長とは、精神の成長の事であって、知識を得てそれを土台にして積み重ねる、という事ではない。
それで精神を成長させるには、無理があるのだ。
しかし、ここでいう精神のレベルというのは、いわゆるスピリチャル系の人達がいう、魂云々のことではない。
「自意識」に関係する話である。
俗に、「考え方が幼い」とか「行動が幼稚だ」というところの話である。
そこを成長させると、自分が得ようとする情報全てが変わるし、思考そのものが深くなる。
逆に言えば、どれだけ深い情報を持っていても、それを活用する自分自身が幼ければ、幼い解釈しか出来ないし、幼い行動しかできない。
いわば、自分自身の根幹に当たる「核」の成長で、そこを私は精神と名付けているだけである。
昨日ブログに書いた介護職の青年は、「一瞬」であり「自分自身に気付いた」のだ。
丁度この事を比較できる出来事が同時にあった。
それこそ「腑に落ちる」と口にした青年がいたのだ。
私がある問題に対して説明した時に「腑に落ちました」と言ったので、すかさず私は「腑に落ちてどうするの?」と質問した。
彼は答えられなかった。
もちろん、それが正しいのか間違っているのかという問題ではない。
私はあくまでも精神の成長こそが、人の成長であり、それは自分自身が自分自身に対して行うべき最大の仕事だと捉えている。
だから、そうは考えていない人にとっては、私の考え方など本当に無意味だし、それで良いのだ。
その意味で彼が答えられなかったから、間違っているのではないのだ。
ただ、「明鏡塾」という医療従事者の為のワークを行っているが、ここでの目的はこの「精神の成長」も側面の一つだ。だから、「腑に落ちてどうするの」を答えられなかった彼は、知識的な話での問題の氷解なら、それで良いのだが、自分自身の「核」に突っ込んでいかなければいけないという目的なら、駄目だということになるのだ。
彼は医療従事者だった。
そして一瞬で気付いた彼も医療従事者だった。