言葉と感覚の関係
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もしかしたら、感じていること自体は共通する。
しかし、それを言語化したり、その感じていることに好奇心を持つ事で異なる。
と私は考えている。
例えば、武道では相手の手を握るという状況がよくあるし、稽古としても用いる。
それは、握る側握られる側双方の、接点としての部位の感覚を研ぎ澄ませる為である。
その事が「技」であり「技術」だと考えるからだ。
武道の見える事でいうと、握ることで相手が倒れたり、逆に握られた事で相手が倒れる。
これを技だとは考えていないということだ。
そういった現象も起こせる、というだけのものだ。
そこには理由がある。
武道という世界は、何がどうなるのか分からないという、全てが不確定なものだ。
だから、「型」通りの事が起こる確率はすこぶる少ないのだ。
しかし、そこに「型」が存在する。
であれば、その理由を考える必要がある。
その理由が、何がどうなるかは分からない、という状況に対処する為なのだ。
つまり、「型」というのは、ここでいう全ての感覚を鋭敏にする為のもの、という考え方である。
握った握られたから、握られた握った接点の感覚に注意を向けていくと、最初は筋肉の動きとして、相手が動くということを感じ取れる。
それがどんどん深化していき、気配を感じ取れるというところまでいく。
これは、好奇心が誘導しているのだ。
だから、好奇心で誘導できない人には、残念ながらそこは分からない。
また、握られた時、万力で掴まれているようだ、という表現をする人と、単に痛いと表現する人とでは、その感じていること自体の内容が変わる。
言葉に感覚が誘導されるからだ。
万力で掴まれているよう、と言った人が、「いや、もっと他の言葉はないか?」と好奇心を持つことで、また感覚されていることが変化する。
言葉と感覚との関係は、そういったものではないかと考えている。