熊野に帰った
水の音が聞こえる。
しかも良い音だ。
これで山での仕事の一つは消えた。
しかし、思いのほか熊野は寒い。
コタツを出しっぱなしだったが、夜はコタツの中、上着はフリースだ。
雨が多い場所なのに、ここ何日間かは雨が降ったという痕跡はない。
皮肉なものだ。
であれば、屋根修理がはかどっている筈だったのに。
「極意とは己が睫毛のごとくにて、近くあれども見えざりけり」と残る武道の言葉だ。
これはどんなことでも同じだ。
山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう。
も、青い鳥を探すのも同じだ。
気づきの一つを現す言葉でもあり、そのものでもある。
そんな構造を持つ日本語は美しく素晴らしい。
その意味で、基本稽古は奥義だとも言う。
しかし、それが分からない時は、全く分からない。
分かるようになった時に、やっと分かるものだ。
これは、ドラムの練習をしていた頃を思い出す事で気付いたことだ。
ドラムでは一つ打ちという基本中の基本から練習を始める。
これがちゃんと出来なかったら、リズムも刻めないし、とにかくドラマーにはなれない。
今でも時折、練習台に向かう時がある。
それはそういった事を、再認識する為でもあり、もっと滑らかに叩けないかを研究しているからだ。
これをやると、武道での基本稽古や、それを実現させる身体のパーツの稼働を訓練したくなる。
そうすると、色々とやりたくなることが湧いて来る。
本当に人は身体を動かさなければ、頭が動き出さないのだと感じる。
明日から、修理に入るから身体を酷使する。
それが、また何かを生み出してくれるのだろう。