極意?どこかにあるのか?
東京ワーク・ショップは6月2.3.4.5日です
http://hinobudo.wixsite.com/workshop/workshop-1
昨日の東京教室、久々の稽古で生徒の一人が「不思議なる極意ばかりを尋ねつつ、表にあるを知らぬはかなさ」を書いたブログを読んだが、自分の流派には「極意」という型があるという。
もちろん、何があっても不思議ではない。
余程の何かが潜んでいるのだろうと思う。
また、その流派は古流なので、全く異なった境地があるのかもしれない。
「でもな、俺が教えているのは全部極意やで」
しかし、私の教えていることが極意かどうかは別にして、極意にするのもしないのも、それに取り組む人次第なのだ。
決してそこに極意が「あるのではない」のだ。
ある人にとっては、極意だと思うかもしれないが、ある人にとっては猫に小判のようなものかもしれない。
一般的には、単なる不思議な体操くらいの認識だろうと思う。
だから、稽古が無茶苦茶になる事が多々ある。
しかし、それが社会だし日常そのものだ。
そこを何をどう選択して生きていくのか、そこが実力である。
ワーク・ショップで言うと、誰と組むのかが大事なのだ。
それで、その時間が活きるのか苦痛になるのかだ。
もちろん、苦痛だったとしても、それが自分の眼力だと認識すればよい。
但し、次回は、あの人とは組まないようにしよう、と思うのでは駄目だ。
実際そうしたとしても、何故その人を選んだのかを思い出す事だ。
あるいは、その人の特徴を見つけ出すことだ。
それが自分の眼力を養う事になるからだ。
沖縄のワーク・ショップでは、主催者や手伝ってくれている、受講生から言えば、いわば常連の人達は、率先して自分の苦手だとした人と組む様にするようになっている。
その事で、自分自身の人に対する認識が変わったり、その人の良いところを見出したりしている。
全ては自分の人生だから、どう取り組むのか、どう解釈するのか。
そこで得たとこが、その人にとっての極意なのだから。