一つとして同じものはないのに

東京ワーク・ショップは6月2.3.4.5日です
http://hinobudo.wixsite.com/workshop/workshop-1
「日野さんのやっていることは、〇〇でしょう」ワークショップでも、教室でも外国でも言われることがある。
あるいは、「日野さんはこうしているのでしょう」と言われることもある。
○○を知らないから「そうです」とは言えない。
しかし、しかし、その前に他人がやっていること、もちろん、この場合は武道としての技であったり、武道としての身体操作の事だ。
当たり前の事だが、世界には似たような現象を起こす人は沢山いる。
原理が同じかもしれない事も沢山ある。
私は常に「かもしれない」という言葉を使う。
それは、個人のやっている事だから、身体内で、あるいは意識をどう使っているのかが、明確に分かる筈がないので「絶対これだ」と言い切れないからだ。
絶対と言えるのは、やる人が身体を使わずに欲求のままやっていること、もしくは、欲求を隠しているつもりのものだ。
これらは、「欲求」が明らかに見えるし、その事が最優先されているので「違う」といえる。
この「欲求」が明らかに見えるという中にも、様々な種類がある。
一つは自分を強いと思われたい、自分の技は凄いだろう、と思われたい、自分を達人だと思い込んでいる等々の、自意識過剰で思春期前期のまま成長していない人。
一つは、ただただ乱暴なだけの腕力一辺倒の人。
しかし、この腕力一辺倒の人はまだましだ。
自分の欲求が直球で現れているだけだからだ。
私も使う「腕力を使わない」ということ一つとっても、そこに感覚差がある。
だから、その人としては感覚が鋭いとしていても、それ以上に鋭い人から見れば、鈍いとなるのだ。
その感覚差が、技や身体操作の違いだから、非常に重要なポイントだ。
そして、こういったそれぞれの人は、自分自身の出来ている事でしか「見る事」はできないし、理解することが出来ない。
だから、運動分析だけで、その技や現象を語ること等出来ないのだ。
機械を使っての分析にしても、機械が現した事を解析するのは、「その人」だ。
だから、数値は客観的であっても、解析は個人的であり、その解析する人のレベルでしかないので、客観的な答えなど出る筈も無いのだ。
つまり、全ては個人的なものだということだ。

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