意味不明

何度も挑戦するとどうなるか。
それは自分をどんどん掘り下げている事、あるいは、隅々まで発見することになるのだ。
もちろん、そう気付けるまでに「何、これ?」と諦める人、関係ないと無視する人他がいる。
もちろん、そう考える人はそうなって当たり前だし、それで良いのだ。
皆がみんな、そう気付ける筈もないし、気付く必要も無い。
ずっとずっと「顔を見たら分かるやろ」と書いているが、それも同じだ。
顔を見ても分からない人には、判る必要が無いのだからそれでよい。
今回のワークショップを終え、打ち上げでもそんな話になった。
意味不明でたたずむ人もいる。
初参加でも何故か一生懸命に取り組む人もいる。
そして、何かを掴む人、掴まない人もいる。
それはそれぞれにそれで良いのだ。
全ての人をカバーするワークなど存在しないのだ。
もちろん、私自身もそんな大それたことは考えていない。
むしろ、特定の人の為の、で良いのだ。
しかし、特定の人というのは、最初から特定ではない。
獲得して行っている人が特定だということだ。
今回のワークショップは、出来高という事で言えば、相当高いワークショップになった。
見るからにスマートな人が出来て行くのなら、受講者も「あの人なら出来るだろう」となる。
しかし、世間で言う見るからにドンくさい人が、真摯に取り組みそのコマで誰も出来ない事が出来れば、「ええ~~」となる。
その「ええ~」が、受講者の何かを刺激し次に出来る人を生む。
その、程よい連鎖が沢山あったのだ。
もちろん、それは運動的な事、身体能力的なことではない。
人間関係そのものの本質、関係が取れる、である。
関係が取れているのかいないのかは、相互に出す声で分かる。
衝突しているのか塗れているのかの違いだ。
この現象は、ある程度聞き込んでいくと誰にでも分かる事だ。
人間関係を冠としているセミナーの講師は、一度私のワークを受講したら良い。
「それは本当か?」を見事に突き付けられるからだ。
人間関係の形成に理屈も理論も無い。
自らの感性がどう響くか、だけだ。
その意味で、14歳の少女達が一番乗りを果たしたのだ。
理論や理屈があるとするならば、それにそって何かしらが出来ていくのか、本当にその理論に取り組んでいるのか。
そんなことを考えた事があるのだろうか。
意味不明の言葉が並んでいるだけとしか思えないのだが、それを意味不明だと感じ取れない人は、余程国語能力が低いとしかいいようがない。
あるいは、自分が取り組もうとしている事に真剣ではない。
真剣ではないから、意味不明という事に気付かないのだ。

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